なぜあの場面であの曲なのか

 これは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の感想です。サッカーとは関係ありません。
 以下はネタバレです。題名もネタバレ用に変えます。



なぜあの場面で「今日の日はさようなら」なのか

 参号機の起動実験にアスカが搭乗。その参号機が使徒により浸食される。初号機で迎撃したシンジは戦闘を拒否。ダミープラグに切り替えられ、初号機は参号機をズタズタにしてという残虐場面。そこで流れた昭和の名曲。

 いつまでもー、たえることなくー、とーもだちでーいようー

 悪趣味だと思った。そう思った人は多いらしく、「今日の日はさようなら」と「悪趣味」で検索かけると、ずらずらとヱヴァンゲリヲンの感想が並んでいく。
 私もあの場面で、あまりの悪趣味さに茫然とした。後に流れた「翼をください」のほうは、一度衝撃を受けただけに「もう、どうだっていいんじゃね?」状態だった。

 さて、なぜ庵野総監督はあの場面であの曲を使ったのだろうか。
「何か、あの曲に恨みでもあるんじゃないのか?」
 直感的に、そう思った。

 パンフレットのインタビューで、鶴巻監督の次のような発言がある。

 これは想像ですけど、庵野さんって「やりたくないけど、やった」ということが、これまでの人生にないんですよ

 そうだ。恨みがあったのだ。
 恐らく、庵野監督は「今日の日はさようなら」が嫌いだった。とにかく嫌いだった。それなのに、無理矢理歌わされた経験があるのだ。
 そして、
「この曲が嫌いだなんて信じられない」
と先生や友達に責められたことがあるのだ。あるいは好きな女の子に、「なんで歌わないのー? 変なの」などとからかわれたりしたのだ。
 やりたくないことをやらないできた庵野監督には、トラウマになるような出来事だったのだ。

 だからこれは復讐だ。
「俺がこの曲のイメージを変えてやる」
「エヴァ・破」を見た人は、もう二度と「今日の日はさようなら」をそれ以前のようには歌えなくなるだろう。歌うたびに参号機が切り裂かれ、臓物を引きずり出され、アスカが搭乗したままエントリープラグが噛み砕かれた場面を思い出さずにはいられないだろう。この曲はもはや、友と別れる時に歌う、情感あふれる歌ではなくなったのだ。

 そう、これは庵野監督の復讐に違いない。




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 もちろん上記の文章は私の個人的妄想である。

 どこかのブログで、野田秀樹演出の「半神」の影響を受けたからだろう、という指摘があった。主人公が「私を一人にして」と痛切に語る場面のバックで、天地真理の「ひとりじゃないの」(ひとりじゃないって、すてきなことね)がかかったという。そこで庵野監督が、ああいう悪趣味な演出を自分でもやってみたいと思ったという。

 さすが庵野秀明。すべての演出に元ネタがある。

 すみません。その「どこかのブログ」なんですが、トラックバックしようとして検索したけど見つかりませんでした。


[追記]
 「あきかぜ日記」7/12の記事「エヴァをついに」の2番コメント船橋様の書いた文章にありました。

前に庵野監督が語ってたんですが。

野田秀樹の「半神」っていうお芝居で、シャム双生児が「一人になりたい!」と嘆くシーンに、天地真理の曲を流すっていう、悪趣味ぎりぎりの演出があって、自分もそれに近いことをいつかやりたい、みたいな話があったんですよ。


 アニメも演劇も好きな人って、どれだけいるんでしょう。元ネタ探しにはわりと盲点のような気がしますね。

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(注)コメントにもある通り、ここに書いたものは妄想交じりの不正確な話になっておりますので、本気にしないようにお願いいたします。

この記事へのコメント

水谷秋夫
2019年11月06日 18:36
コメントありがとうございます。
ここに書いたものは妄想交じりの不正確な話になっているようですが、そうしたものを書きがちな人である証拠としてこのまま晒しておきます。
ケンタクス
2023年12月14日 11:18
エヴァになんの思い入れがない世代ですが。多分あの曲を選んだ理由は異化効果というものかと。
G3
2024年07月11日 21:01
手法としては「映像と音楽の対位法」といいます。ドイツ語でコントラプンクト。英語だとカウンターポイントです。元は音楽用語で2つの異なる旋律を重ねる表現ですが、映像の場合、映像と音曲のギャップのことを指します。
庵野の場合、当然、対位法の名手である黒澤明やスタンレー・キューブリックの映画を模倣していると思います。

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