「魔法少女まどか☆マギカ」にみる女性キャラクターの男性性
私ね、未来から来たんだよ? 未来では仙台がACLに出てるんだよ。
上記は昨年、ベガルタの四位が確定し、まだ天皇杯優勝チームが定まっていなかった頃に誰かが2chに書きこんだ文章。結局、ベガルタは四位でのACL出場はかなわなかった。しかし、一年経ってこの文章が現実になるとは思わなかった。
いや、そもそもベガルタがACL出場などということが現実になったらなんと素晴らしいことかと思っていた。しかし、現実に二位になってみると、二位というのがこんなにも腹立たしくがっかりするものだとは知らなかった。清水サポや川崎Fサポの気持ちをわかっていたつもりではいたのだが、現実には全然わかっていなかった。
さて、それはさておき本題だ。ここから先はサッカーとたぶん関係が無い。
先日、映画化された「魔法少女まどか☆マギカ」を見に行った。昨年の春に終わっていたアニメ作品の総集編だ。これを見て思うところがあったので書いてみる。なお、見にいったのが11/25で広島優勝決定日の翌日だった、というのはただの偶然である。現実逃避ではない。たぶん。
これから書くのは、まどマギの女性キャラには男性的な科白や行動が多かった、という話だ。キャラクター別に述べてみる。
○暁美ほむら
そもそもこんなことを書こうとしたのは、北へ。の国からの考察「魔法少女まどか☆マギカ」とは、どのような物語だったのかにあった、「あの物語は、暁美ほむらという少年の、理想的な失恋譚である」に、触発されたからだ。
なるほど、ほむらの行動は少年的である。ヒロインを守るために冒険の旅と戦いを続ける。まさに少年ヒーローの役どころだ。そんな少年冒険譚はすでに世の中に多くある。といって真っ先に思い浮かべたのがドラクエの第一作だったりしたのは例としてどうなのか疑問だが。
ともあれ、ほむらが「大好きな女の子を守るために戦う」少年であるとした仮説には同意する。さて、他の登場人物はどうだったか。
○美樹さやか
まどかは私の嫁になるのだー!
のっけから親父だな、こいつ、と思われた少女。しかし、実は好きな男のために破滅する役割を与えられた乙女キャラだ。
だが、どうも納得できないのは、さやかの恋の諦め方だ。
「仁美に恭介を取られちゃうよ…。でも私、何も出来ない。だって私、もう死んでるもん。ゾンビだもん。こんな身体で抱き締めてなんて言えない。キスしてなんて言えないよ…」
友達のほうが恭介に相応しいから身を引く。まるで古い演歌のようだ。しかし、そんな簡単に女の子が好きな男を諦められるものだろうか。
「ゾンビになったって、あたしのほうが恭介が好きなんだから。ずっと恭介ばかり見てきたんだから。お嬢様になんて負けないんだから。恭介、あたし、あなたが好きなの」
「ごめん。ぼくにはさやかは、友達としか思えない」
そこでさやかは絶望し、魔女になってしまいましたとさ、という話のほうが私にはリアルに思える。
だがさやかが少年的なキャラなら? 親友が好きだというなら自分はいい、と恋愛よりも友情を優先するのはむしろ男性にありそうな話だ。内田篤人もこう言っている。
Q、彼女と友達、どっちが大事
「友達」
<中略>
Q.三角関係は
「ないです、じゃあ俺はいいよ ってパッと引く」(JUNON2月号)
例に引いたのがウッチーでいいんだろうか、という話はあるが、そういう男もいるということだ。
先ほど、古い演歌のようだと書いたけれども、古い演歌はたいてい男の人が詞を書いていたのだ。あれは男性心理を女性に仮託したものだろう。
それにさやかのコスチュームは、一番少年っぽい。さやかは少年と少女の間で人格が引き裂かれてしまったキャラに思える。
なお、好きな男のために魔法少女になったさやかが一番悲惨な運命を辿ったことには、なにかミソジニー(女性嫌悪)的なものすら感じられる。
○佐倉杏子
杏子は単純に少年の役割が与えられたキャラである。少女なのは見た目だけだ。
話しっぷりがそもそも少年っぽい。ダンスゲームで見せた卓越した運動能力も少年性を補完するものだ。
それにさやかとの関係性もだ。喧嘩相手から始まり、心情を理解し、接近する。これは少年漫画の王道展開である。
○鹿目詢子
まどかマギカは男性キャラには冷淡だ。上条恭介はさやかの悲恋の相手であるのに、彼の心情が描かれることは無い。まどかの父も両親の揃った円満な家庭を演出する以上の役回りはなく、主夫として影のように控えているばかりだ。
一方で母の詢子は、ばりばりのキャリアウーマンだ。母というばかりでなく、父親的な役割も負わされている。
「これならまどかの隠れファンもメロメロだ」「いないよぉ、そんなの」 「いると思っておくんだよ。それが、美人の、ヒ・ケ・ツ」
こうした頼りになる女の先輩的科白ばかりではない。
「大人は誰だって辛いのさ。だから酒飲んでもいいってことになってんの」「私も早くママとお酒飲んでみたいな」「おう、さっさと大きくなっちゃいな~。辛い分だけ楽しいぞ、大人は~」
子供と酒を飲みたい、などと言う話は親父が息子にするものだ。
「初めてなんだよ、アイツの本音を見抜けないなんて。情けねぇよな、自分の娘だってのに」
たいていの親父は、思春期の娘が何を考えているのかわからん、と言って嘆くものだ。
「絶対に下手打ったりしないな? 誰かの嘘に踊らされてねぇな?」(その後、娘の背中を押す)
こうした時、従来のアニメでは、母親は大抵ひたすら心配している。子の背中を押すのは一般には父親の役目。
さて、こうした、女性キャラに男性的な役目を負わせたことで、どんな効果が生じるだろうか。
視聴している男性が感情移入しやすくなる。
「ああ、あるある、わかるわかる」
と我が事のように感じられてくるのだ。
男性視聴者にとって巴マミは、その中学生らしからぬ豊満な肉体からも、女性として、性の対象として見られていた。マミが「もう何も恐くない」と言っても、恐がらなくなったのはマミであって、視聴者である自分ではなかった。
しかし、さやかと杏子の物語は違う。さやかが「あたしって、ほんとバカ」と言った時、男性諸氏はさやかの悲劇に我が事のように涙したのだ。そして杏子が「独りぼっちは、寂しいもんな」と言った時は、「そうだ、俺が一緒にいてやる」と心で呟いたのだ。このさやかと杏子の科白は、心に残ったセリフランキングの二位と一位になっている。
そして物語はほむらの話に進む。視聴者は今度はほむらに感情移入する。お姫様を守るために時間を越えて自分が戦ってきたような錯覚に陥るのだ。「ぼくは未来から来たんだよ」と。
さらに詢子とまどかの別れの場面では自分が親になったように感じる。まどかの背中を押し、まどかの成長を促したのは私だと。
まどかマギカという物語の特異性がおわかりだろうか。一般に魔法少女物語は少女を視聴者対象とし、少女たちが感情移入しやすいように作られているものだ。しかし、まどマギは違う。深夜アニメということもあってか、男性が感情移入しやすいように作られている。
実際、私の観た映画館では少女の観客などはいなかった。カップルもいたが、大人の男性が多かった。中には杖をついた爺さんまでいた。
世の男性のみなさん。まどかマギカは少女たちの物語ではない。あなたの物語なのだ。
上記は昨年、ベガルタの四位が確定し、まだ天皇杯優勝チームが定まっていなかった頃に誰かが2chに書きこんだ文章。結局、ベガルタは四位でのACL出場はかなわなかった。しかし、一年経ってこの文章が現実になるとは思わなかった。
いや、そもそもベガルタがACL出場などということが現実になったらなんと素晴らしいことかと思っていた。しかし、現実に二位になってみると、二位というのがこんなにも腹立たしくがっかりするものだとは知らなかった。清水サポや川崎Fサポの気持ちをわかっていたつもりではいたのだが、現実には全然わかっていなかった。
さて、それはさておき本題だ。ここから先はサッカーとたぶん関係が無い。
先日、映画化された「魔法少女まどか☆マギカ」を見に行った。昨年の春に終わっていたアニメ作品の総集編だ。これを見て思うところがあったので書いてみる。なお、見にいったのが11/25で広島優勝決定日の翌日だった、というのはただの偶然である。現実逃避ではない。たぶん。
これから書くのは、まどマギの女性キャラには男性的な科白や行動が多かった、という話だ。キャラクター別に述べてみる。
○暁美ほむら
そもそもこんなことを書こうとしたのは、北へ。の国からの考察「魔法少女まどか☆マギカ」とは、どのような物語だったのかにあった、「あの物語は、暁美ほむらという少年の、理想的な失恋譚である」に、触発されたからだ。
なるほど、ほむらの行動は少年的である。ヒロインを守るために冒険の旅と戦いを続ける。まさに少年ヒーローの役どころだ。そんな少年冒険譚はすでに世の中に多くある。といって真っ先に思い浮かべたのがドラクエの第一作だったりしたのは例としてどうなのか疑問だが。
ともあれ、ほむらが「大好きな女の子を守るために戦う」少年であるとした仮説には同意する。さて、他の登場人物はどうだったか。
○美樹さやか
まどかは私の嫁になるのだー!
のっけから親父だな、こいつ、と思われた少女。しかし、実は好きな男のために破滅する役割を与えられた乙女キャラだ。
だが、どうも納得できないのは、さやかの恋の諦め方だ。
「仁美に恭介を取られちゃうよ…。でも私、何も出来ない。だって私、もう死んでるもん。ゾンビだもん。こんな身体で抱き締めてなんて言えない。キスしてなんて言えないよ…」
友達のほうが恭介に相応しいから身を引く。まるで古い演歌のようだ。しかし、そんな簡単に女の子が好きな男を諦められるものだろうか。
「ゾンビになったって、あたしのほうが恭介が好きなんだから。ずっと恭介ばかり見てきたんだから。お嬢様になんて負けないんだから。恭介、あたし、あなたが好きなの」
「ごめん。ぼくにはさやかは、友達としか思えない」
そこでさやかは絶望し、魔女になってしまいましたとさ、という話のほうが私にはリアルに思える。
だがさやかが少年的なキャラなら? 親友が好きだというなら自分はいい、と恋愛よりも友情を優先するのはむしろ男性にありそうな話だ。内田篤人もこう言っている。
Q、彼女と友達、どっちが大事
「友達」
<中略>
Q.三角関係は
「ないです、じゃあ俺はいいよ ってパッと引く」(JUNON2月号)
例に引いたのがウッチーでいいんだろうか、という話はあるが、そういう男もいるということだ。
先ほど、古い演歌のようだと書いたけれども、古い演歌はたいてい男の人が詞を書いていたのだ。あれは男性心理を女性に仮託したものだろう。
それにさやかのコスチュームは、一番少年っぽい。さやかは少年と少女の間で人格が引き裂かれてしまったキャラに思える。
なお、好きな男のために魔法少女になったさやかが一番悲惨な運命を辿ったことには、なにかミソジニー(女性嫌悪)的なものすら感じられる。
○佐倉杏子
杏子は単純に少年の役割が与えられたキャラである。少女なのは見た目だけだ。
話しっぷりがそもそも少年っぽい。ダンスゲームで見せた卓越した運動能力も少年性を補完するものだ。
それにさやかとの関係性もだ。喧嘩相手から始まり、心情を理解し、接近する。これは少年漫画の王道展開である。
○鹿目詢子
まどかマギカは男性キャラには冷淡だ。上条恭介はさやかの悲恋の相手であるのに、彼の心情が描かれることは無い。まどかの父も両親の揃った円満な家庭を演出する以上の役回りはなく、主夫として影のように控えているばかりだ。
一方で母の詢子は、ばりばりのキャリアウーマンだ。母というばかりでなく、父親的な役割も負わされている。
「これならまどかの隠れファンもメロメロだ」「いないよぉ、そんなの」 「いると思っておくんだよ。それが、美人の、ヒ・ケ・ツ」
こうした頼りになる女の先輩的科白ばかりではない。
「大人は誰だって辛いのさ。だから酒飲んでもいいってことになってんの」「私も早くママとお酒飲んでみたいな」「おう、さっさと大きくなっちゃいな~。辛い分だけ楽しいぞ、大人は~」
子供と酒を飲みたい、などと言う話は親父が息子にするものだ。
「初めてなんだよ、アイツの本音を見抜けないなんて。情けねぇよな、自分の娘だってのに」
たいていの親父は、思春期の娘が何を考えているのかわからん、と言って嘆くものだ。
「絶対に下手打ったりしないな? 誰かの嘘に踊らされてねぇな?」(その後、娘の背中を押す)
こうした時、従来のアニメでは、母親は大抵ひたすら心配している。子の背中を押すのは一般には父親の役目。
さて、こうした、女性キャラに男性的な役目を負わせたことで、どんな効果が生じるだろうか。
視聴している男性が感情移入しやすくなる。
「ああ、あるある、わかるわかる」
と我が事のように感じられてくるのだ。
男性視聴者にとって巴マミは、その中学生らしからぬ豊満な肉体からも、女性として、性の対象として見られていた。マミが「もう何も恐くない」と言っても、恐がらなくなったのはマミであって、視聴者である自分ではなかった。
しかし、さやかと杏子の物語は違う。さやかが「あたしって、ほんとバカ」と言った時、男性諸氏はさやかの悲劇に我が事のように涙したのだ。そして杏子が「独りぼっちは、寂しいもんな」と言った時は、「そうだ、俺が一緒にいてやる」と心で呟いたのだ。このさやかと杏子の科白は、心に残ったセリフランキングの二位と一位になっている。
そして物語はほむらの話に進む。視聴者は今度はほむらに感情移入する。お姫様を守るために時間を越えて自分が戦ってきたような錯覚に陥るのだ。「ぼくは未来から来たんだよ」と。
さらに詢子とまどかの別れの場面では自分が親になったように感じる。まどかの背中を押し、まどかの成長を促したのは私だと。
まどかマギカという物語の特異性がおわかりだろうか。一般に魔法少女物語は少女を視聴者対象とし、少女たちが感情移入しやすいように作られているものだ。しかし、まどマギは違う。深夜アニメということもあってか、男性が感情移入しやすいように作られている。
実際、私の観た映画館では少女の観客などはいなかった。カップルもいたが、大人の男性が多かった。中には杖をついた爺さんまでいた。
世の男性のみなさん。まどかマギカは少女たちの物語ではない。あなたの物語なのだ。
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