笑っていいともの変遷

 笑っていいともは32年続いたという。
 その32年、ずっと見続けていた人はどれだけいたのだろうか。
 私はそうではない。途中まで見ていて、途中から見なくなった。

 笑っていいともが始まったのは1982年。当時私は学生だった。自分は当時も今もアンテナが低く、始まって何カ月かしてから姉に教わった記憶がある。面白いよ、流行っているらしいよと。
 見たら変な番組だった。タモリは当時、イグアナの真似や四カ国麻雀を持ちネタとする怪しい芸人だった。その怪しい芸人が仕切る番組は、予定調和から外れ、なにか驚かせてやろうという意欲にあふれていた。
 テレホンショッキングは実際にショッキングだった。呼ばれたタレントが、突然友達に電話をかけて、明日来てくれと言うのだ。唐突な出演依頼の電話に断る人もいた。松田聖子や愛川欽也が断っていたのを覚えている。
 音楽に例えるなら、この時の笑っていいともはロックンロールだった。反抗の音楽だ。ベガサポ的に曲を選ぶなら、トゥイステッド・シスターの"We're Not Gonna Take It"だ。
 笑っていいともは次第に視聴率が上がり、人気番組にのし上がった。「いいとも」や「おじさんは怒ってるんだぞ」などが流行語になった。

 人気番組になることで笑っていいともは変化した。視聴率を得た番組はひとつの権威だ。多くのタレントがこの番組に出ることを望むようになった。
 テレホンショッキングはショッキングではなくなった。前もって誰を次に出すか、と根回しが行われるようになった。例えば同じ映画に出演している人、あるいは同じ事務所の人が続く、とか。友達を紹介した後、「実は友達じゃないんですよ」と言ったのはジョニー大倉だったろうか(違ってたらごめん)。
 若手の芸人が出てここで鍛えられて重鎮になっていく、という流れも出来た。お昼の人気番組に定着すると、「いいとも」はもう流行語ではなくなった。
 音楽に例えるなら、この時期はポピュラーソングだった。ベガサポ的な曲に例えれば、アイリーン・キャラの"What a feeling"だろうか。

 私はというと、ある時期まではこの番組を見ていた。もちろん真っ当な学生であり、その後は真っ当な社会人であったから、平日の昼間に見るのは難しかった。本放送は祝日の昼間に家にいた時ぐらい。日曜の増刊号のほうをもっぱら見ていた。増刊号にはフジテレビの中井アナなどが出ていた。「中井(仲居)さん?」「はい?」「お銚子一本」などという掛け合いを喜んで見ていた。

 だが、次第に見なくなった。今から十五年くらい前からだと思う。
 偶然、例えば平日に仕事で外出しお昼時に入った食堂でテレビがつけられていて、という時ぐらいしか見なくなった。
 そんな時、笑っていいともは、邪魔にならない空気のような番組になっていた。一時間見ていても何を見ていたか忘れてしまう。不快なわけではないが、なにも心に引っかからない。
 ベガサポ的には、ジョン・デンバーの"Country road"が一番近いだろう。"Country road"は好きな曲だが、"Country road"のように心に刺さらないバラエティ番組を、あえて見たいとは思わなかった。
 そして怪しい芸人だったタモリは、いつの間にか芸人に尊敬される芸人になっていた。

 香取慎吾は「そもそも、なんで終わるんですか?」と言ったそうである。
 視聴率が下がったからか。
 笑っていいともを見ることでいいともを人気番組に押し上げ、しかしある時期から見なくなってしまった視聴者。そんな人が沢山いたから終わったんだろう、と私は思っている。

 もしそうなら、あの国民番組を終わらせた者の一人は、私である。

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