木曜映画サイト 大岡昇平「事件」を読み、映画「事件」を思い出す

「事件」は大岡昇平の書いた推理小説である。当初は「若草物語」の題名で朝日新聞に連載されたが、加筆修正された後に「事件」と改題されて1977年に刊行された。
 この「事件」は、1978年に野村芳太郎監督により、映画化された。配給は松竹。この映画のほうを、私は学生時代に見ている。封切で見たのか、名画座で見たのか、もう覚えていない。封切りなら43年前、名画座としても40年くらい前の話になる。
 最近、この小説のほうの「事件」を読んだ。このところ、過去の名作とされる小説を立て続けに読んでいて、「事件」を読んだのも推理小説の傑作として評判が高かったからである。昔見た映画の原作がどのようなものだったのか、という興味もあった。

 小説「事件」は法廷劇である。まず厚木でスナックを営んでいた女性の死体が山の中で発見された。犯人として若い男が逮捕されたが、彼は被害者が亡くなった直後から被害者の妹と、駆け落ちして同棲していた。被告人は自分の持っていたナイフにより被害者が亡くなったことは認めながらも殺意は否定した。法廷で焦点となったのは、これが殺人事件か否か、被告に殺意があったのか、ということにあった。
 さてこの「事件」という小説が、「事件」という映画になった時の、現在の印象と過去の印象を引き比べて考えてみたい。

 小説を映画にするとはどういうことなのか。私はよく、小説の長所も欠点も、見えもせず聞こえもしないことだと思うことがある。「事件」の被害者であるハツ子は23歳という設定だ。彼女が死に至る過程を見えも聞こえもしないのに伝えるのには手間がかかる。どんな育ち方をしたのか、父親は、母親との関係は、妹とは。教育はどれだけなされたのか、家を出てからどんな仕事をしたのか、厚木でスナックを始めた理由は、どんな男と付き合っていたのか。それらの人物像は、書かれなければ何も伝わらない。大抵の小説は読むのにそれなりの時間を必要とする。読むという行為では情報を受け取るのに手間と時間が必要なのだ。
 一方、読む行為は見ることも聞くこともないために、想像することができる。ハツ子がどのような女性か、読者はいかようにも想像することができる。同時に、読者に興味が無ければ想像しないことも可能だ。小説は読む側にとって自由度が高い。

 一方、映画はどうか。ハツ子は松坂慶子が演じた。彼女の顔と体を見て声を聞けば、ハツ子の姿は想像する余地もなく規定される。その化粧を見ただけで生い立ちが限定される。映画は疑問の余地を残さない手間のかからない媒体だが、それだけ見る人間に想像の自由度はない。
 そして映画には時間の制約があり、大抵は2時間前後で終えなければならない。その本を読む時間に比べれば何十分の一か、という時間である。当然、小説を原作とする場合、映画は書かれたことのダイジェストになりがちである。

 そして映画は、なにかしら印象的な「絵」を必要とする。妹のヨシ子が法廷に証人として呼ばれた場面があった。ヨシ子は被告である宏(演じたのは永島敏行)の子を宿した妊婦である。
 検事は宏の殺意を証明したい。そのために、宏はハツ子を殺していながら平気な顔で欲望のままにヨシ子と同棲をした、という話を作りたい。しかし、ヨシ子は宏をかばいたい、という場面である。そこで小説では、ヨシ子は法廷で欲望のままに同棲していたのではないと証言する。妊婦である自分を気遣って同棲していても宏は「アレ」を控えていました、と言う。
 小説ではここまでしか書かれていない。しかし映画ではこの場面がさらに進んでいた。検事が問う。
「『アレ?』、『アレ』とは何ですか?」
「セックスです!」
 大竹しのぶは当時21歳。好きな男を一途に思う娘を演じていた。彼女は現在のイメージとは全然違って、若い頃は純朴な役が多かった。その大竹しのぶが「セックス」と叫ぶ場面は、当時若かった自分には大変に衝撃的だった。
 小説を読んであの場面が原作にはない、映画ならではの効果を狙ったものだったと知って、なにやら複雑な気分になった。

 映画は当時見て傑作と思ったが、小説も傑作だった。ともに傑作でありながら、映画と小説は随分違うものだ、というのが現在の感想である。

 ちなみに映画だが、改めて配役を見ると、名優ぞろいである。前述の松坂慶子、大竹しのぶ、永島敏行は当時の人気俳優だ。それに脇を固めるのが、丹波哲郎(弁護士)、芦田伸介(検事)、山本圭(教師)、乙羽信子(姉妹の母)、佐野浅夫(宏の父)。他に穂積隆信、北村谷栄、西村晃、渡瀬恒彦、佐分利信、森繁久彌など、実力ある俳優たちが多く参加していた。
 監督は前述の野村芳太郎、脚本は新藤兼人。配給の松竹は社運を賭けるぐらいの気合を入れたのだろう、と想像している。

 そして私は、この映画の松坂慶子が好きだった。彼女はそれまで性的な汚れ役をすることは少なかった。ヒモが纏わりつく水商売の女を演じたことはそれまでなかった。それだけに汚れ役を演じる姿が初々しかった。その絶妙なバランスが私に強い印象を残したのである。

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