木曜映画サイト モーリタニアン アメリカの正義

 アメリカ同時多発テロに関与した疑いで逮捕された主人公、モハメドゥ・ウルド・スラヒ(役:タハール・ラヒム)は裁判も受けないままキューバの収容所で拷問を受けた。スラヒの弁護を引き受けたナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)らと、スラヒを告発する側である軍の弁護士ステュアート中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)は、軍の陰謀を明らかにしていく。

 これは、アメリカの正義に対する物語だ。

 糾弾される側は、米軍とCIA、そしてそれを許した政府である。映画を見終えて、もちろん米軍の行為は許されるものではない、という感想を持った。
 だが同時に、米軍らがこれらの行為を行った理由というものも想像した。軍には軍の正義というものがあるのだろう。それは、
「戦争に勝つためには何をしてもよい」
という発想だ。
 アメリカは対テロの戦争をしている。怪しい奴は逮捕する。拷問をしてでも機密を吐かせる。相手は残虐なテロをしかけたのだから、犯罪者の人権など考えている場合ではない。
 仮に自分たちが間違っていたら? 軍は間違えない。自己保身のために罪はでっち上げる。捕らえた者は外に出さない。これを破る軍人は裏切り者だ。
 これが戦争中の軍の正義なのだろう。アメリカは酷い国だ、と言うのはたやすい。だが日本軍が先の戦争中に何をしていただろうか。

 ただ、アメリカはデモクラシーの国である。テロとの戦争が落ち着けば、軍とは違う正義が顔を出す。人種・宗教の壁を越えて人権は守られなければならないという正義が前に出る。
 アメリカではそうした正義に対する物語が、数多くの映画で紡がれてきた。それは多くのアメリカの問題に対する、アメリカの自浄作用でもある。

 日本映画でそうした正義の物語が語られることは少ない。最近なら「新聞記者」ぐらいか。アメリカの正義感は、時に鬱陶しくもあるが、自分には羨ましく感じられることもある。それは否定できない。

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