木曜映画サイト 嵐が丘、一度の恋に執着し続けた男の悲劇

 私が小説の嵐が丘を読んだのは結構最近で、まだ一年も経っていない。そこにBSプレミアムで1939年版の嵐が丘を放映されたのはタイムリーだった。
 小説は嵐が丘に住む者たち三代にわたる物語だ。映画ではその中で、主役であるヒースクリフとキャサリンの、若い頃のエピソードに主な時間を割いていた。

 嵐が丘の主人に拾われてきたヒースクリフ。その主人が亡くなって息子の代となると、それまで養子扱いだったヒースクリフは、息子に馬丁としてこき使われることになる。嵐が丘の娘、キャサリンとヒースクリフは恋仲だったがキャサリンは近所の上流階級の家、鶫の辻の息子との結婚を選び、ヒースクリフは裏切られたと思い込む。ヒースクリフは嵐が丘を出奔し、やがて大金持ちの紳士としてまた嵐が丘に現れる。

 さて、嵐が丘はヒースクリフの復讐譚と言われている。確かにヒースクリフは博打と酒に溺れるキャサリンの兄を陥れて嵐が丘を手に入れた。原作ではさらに近所の鶫の辻の家も手に入れ、ひとつ下の世代までヒースクリフの支配下に入った。だが私には、復讐譚という気がしなかった。復讐のもたらす悪漢小説的なカタルシスがまるでなかったからである。

 ヒースクリフが嵐が丘に帰還しほどなくして、キャサリンは出産後に亡くなる。彼は結局、彼女を手に入れることが出来なかった。キャサリンが亡くなっても物語は続く。そして復讐が成っても、愛する人を失ったヒースクリフは不幸なままなのである。そして、ヒースクリフに巻き込まれた周囲の人間も、誰も幸せにならない。
 私が小説と映画の嵐が丘に見たのは、キャサリンに執着し続けたヒースクリフの哀れさだ。彼は嵐が丘を出て成功した。それなら、例えばアメリカで成功したのなら、アメリカで楽しく暮らせば良かったのだ。いや、嵐が丘に戻って、キャサリンが亡くなってからでもよい。愛する人は亡くなったのだ。嵐が丘を出て、新たな自分の幸福を探せば良かった。なぜ死者に執着し、死者と共に不幸になる道を選ばなければならなかったのだろうか。

 嵐が丘に描かれたのは、一度の恋に執着し続けた男の悲劇である。作者であるエミリー・ブロンテはそんな男を書きたかったのだ。あるいは、そんな男に自分が愛されたかったのかもしれない、と私は想像するのである。

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