優勝旗の白河の関越え
1969年、三沢-松山商戦の時、私は小学生だった。母の帰省で私は母の実家にいた。いつまでもいつまでも終わらない試合を親戚の家で見ていたのだが、野球の試合を見続ける堪え性が当時の自分にはなかった。親類の家では皆テレビに釘付けで、庭で一人遊びしていたのを覚えている。
1971年、磐城の快進撃は人づてに聞いていた。前評判はそれほど高くなくて、あれよあれよという間に決勝まで進んでいた。決勝で敗れたのは残念だったが、その桐蔭学園戦がどんな試合だったかまるで覚えていない。
1989年、私は会社員になっていた。仙台育英-帝京戦は仕事の合間にラジオで情報を得ていた。育英が負けたのはとても残念に思えた。この見なかった試合は強く印象に残っている。
それ以降、東北勢の決勝はほとんど見ていない。高校野球そのものを見なくなってしまったからだ。高校生と自分の年齢が離れるに従って、私は高校野球に興味を持てなくなってしまっていた。
現在の高校生が自分の子供年代よりも若い、という時期になって、また高校野球を熱心に見ることになった。今年は東北の代表校が最後まで勝ち残っていたからだ。
過去を思い出してみると、東北勢の高校が決勝で戦うのを最初から最後までほとんど見ていた、というのは今回が初めてかもしれない。
しばらく見ないうちに高校野球は変わった。かつて三沢高校の太田幸司は再試合も含め一人で投げ抜いていた。今回、下関国際がほぼ二人の投手で勝ち上がったのに対し、仙台育英は五人の投手を擁していた。育英の投手の方が疲労度が低いと思われていたし、実際そうだったらしい。優秀な投手が複数、できれば多いほど良い、という傾向は今後も続くのだろう。
さて今回、優勝旗が白河の関を越えることになったのだが、こういう表現はいつ頃から使われ始めたのだろう。
河北新報あたりが始めたのだろうか。「白河以北一山百文」と言われた東北のために「河北新報」という名をつけたそうだから、この新聞社は白河の関に思い入れが深そうだ。
と思って調べたら、1980年に「深紅の大優勝旗が白河の関を越えるとき」(1980 武内弘道 (編集), 大原道明 (編集) カルダイ社)という本が出ていたのを思い出した。時期的には前述の磐城と仙台育英の間に当たる。この本がこうした表現のきっかけになったかどうかは知らないが、こうした表現が1980年にはすでにあったわけだ。
これまでなぜ東北勢は優勝できなかったのか。北国の不利、雪で冬の屋外練習が出来ない、といったことが上げられていた。ところが2004年に駒大苫小牧が優勝してしまった。白河の関よりも先に優勝旗は津軽海峡を越えてしまい、北国の言い訳は通用しなくなった。
記録を見ると1900年代を通じて東北勢は四度しか決勝に進んでいない。しかし、2000年から2020年の20年間に東北勢は八度決勝に進んでいる。室内での練習方法も充実してきたし、地球も温暖化している。20年で八度の決勝進出と言えば結構強豪が輩出する地域と言える。東北のハンデは小さくなり、優勝はすでに「そのうちにあっても全くおかしくないこと」になっていたのだろう。
いま思うと、「優勝旗の白河の関越え」はある種の呪いだったのかもしれない。歴史的に軽んじられることの多かった東北は、今となっては持たなくてもよい劣等感を無駄に多く抱えていた。その一つがこの優勝旗だったのだ。しかしそんな劣等感は無用だ。東北を離れてみれば、東北は特別卑下する必要もない、ただの一地方でしかない。
そして呪いは解けた。もはや東北は、こと高校野球に関しては、特別な地域ではなくなったのである。
仙台育英高校に感謝する。彼らは東北の重しを、ひとつ取り除いてくれたのだから。
1971年、磐城の快進撃は人づてに聞いていた。前評判はそれほど高くなくて、あれよあれよという間に決勝まで進んでいた。決勝で敗れたのは残念だったが、その桐蔭学園戦がどんな試合だったかまるで覚えていない。
1989年、私は会社員になっていた。仙台育英-帝京戦は仕事の合間にラジオで情報を得ていた。育英が負けたのはとても残念に思えた。この見なかった試合は強く印象に残っている。
それ以降、東北勢の決勝はほとんど見ていない。高校野球そのものを見なくなってしまったからだ。高校生と自分の年齢が離れるに従って、私は高校野球に興味を持てなくなってしまっていた。
現在の高校生が自分の子供年代よりも若い、という時期になって、また高校野球を熱心に見ることになった。今年は東北の代表校が最後まで勝ち残っていたからだ。
過去を思い出してみると、東北勢の高校が決勝で戦うのを最初から最後までほとんど見ていた、というのは今回が初めてかもしれない。
しばらく見ないうちに高校野球は変わった。かつて三沢高校の太田幸司は再試合も含め一人で投げ抜いていた。今回、下関国際がほぼ二人の投手で勝ち上がったのに対し、仙台育英は五人の投手を擁していた。育英の投手の方が疲労度が低いと思われていたし、実際そうだったらしい。優秀な投手が複数、できれば多いほど良い、という傾向は今後も続くのだろう。
さて今回、優勝旗が白河の関を越えることになったのだが、こういう表現はいつ頃から使われ始めたのだろう。
河北新報あたりが始めたのだろうか。「白河以北一山百文」と言われた東北のために「河北新報」という名をつけたそうだから、この新聞社は白河の関に思い入れが深そうだ。
と思って調べたら、1980年に「深紅の大優勝旗が白河の関を越えるとき」(1980 武内弘道 (編集), 大原道明 (編集) カルダイ社)という本が出ていたのを思い出した。時期的には前述の磐城と仙台育英の間に当たる。この本がこうした表現のきっかけになったかどうかは知らないが、こうした表現が1980年にはすでにあったわけだ。
これまでなぜ東北勢は優勝できなかったのか。北国の不利、雪で冬の屋外練習が出来ない、といったことが上げられていた。ところが2004年に駒大苫小牧が優勝してしまった。白河の関よりも先に優勝旗は津軽海峡を越えてしまい、北国の言い訳は通用しなくなった。
記録を見ると1900年代を通じて東北勢は四度しか決勝に進んでいない。しかし、2000年から2020年の20年間に東北勢は八度決勝に進んでいる。室内での練習方法も充実してきたし、地球も温暖化している。20年で八度の決勝進出と言えば結構強豪が輩出する地域と言える。東北のハンデは小さくなり、優勝はすでに「そのうちにあっても全くおかしくないこと」になっていたのだろう。
いま思うと、「優勝旗の白河の関越え」はある種の呪いだったのかもしれない。歴史的に軽んじられることの多かった東北は、今となっては持たなくてもよい劣等感を無駄に多く抱えていた。その一つがこの優勝旗だったのだ。しかしそんな劣等感は無用だ。東北を離れてみれば、東北は特別卑下する必要もない、ただの一地方でしかない。
そして呪いは解けた。もはや東北は、こと高校野球に関しては、特別な地域ではなくなったのである。
仙台育英高校に感謝する。彼らは東北の重しを、ひとつ取り除いてくれたのだから。
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