木曜映画サイト 「チャンス」この主人公はどこから来たか

 私が学生の頃、映画の話題で先輩が言った。
「面白い映画があるんだ。主人公が植木屋だ。そいつは植木の話しかしないんだが、それが何かの奥深いたとえだと思われて、感心される。最後には大統領候補までなってしまうんだ」
 1980年代中頃の会話で、今から40年くらい前の話である。ついこの間のような気がするが、最近はなにかの思い出というとたいてい何十年も前のことになる。

 該当の映画、「チャンス」は1979年の映画である。先日、ようやくテレビで観ることができた。なお、ガーディナーは植木屋ではなく庭師と訳されていた。
 チャンスはある金持ちの家で主人と家政婦と共に庭師として暮らしている。なぜそこで暮らすようになったのか、映画では全く語られない。チャンスは主人の服を着ることが許されており、一見中年の紳士のように見える。
 そこの金持ちの主人が亡くなる。チャンスには知的障害がある。主人が亡くなるということ自体が理解できない。主人が亡くなったことで家政婦は出ていく。弁護士がやってきてチャンスも家を追い出された。
 その後に街を彷徨したチャンスだが、交通事故に遭ってしまう。相手は富豪の車で、チャンスはその富豪の家に招かれ、富豪の主治医の手当てを受け、そこで暮らし始める。
 そして前述の通り、チャンスは庭の樹木の話しかしていないのに、政界の黒幕でもある富豪や富豪と年の離れた妻にいちいち感心され、重要人物と目されるようになっていく。
 なお、富豪の妻は富豪の病のために性的欲求不満の状態にあり、チャンスにアプローチする。しかしチャンスはその妻の誘惑に乗らない。

 アメリカの映画では、知的に障害があるような人物に温かい目が注がれる、あるいは成功していく、といった映画がいくつかある。古くは「タバコ・ロード(1941)」。有名なものだと、「フォレスト・ガンプ(1994)」。「タバコ・ロード」は原作だと最後に悲劇的なことが起こるのだが、それが起きる前で映画を終わらせている。「フォレスト・ガンプ」の主人公は自覚がないままに経済的な成功者となる。
 あまり賢くない人が成功する、あるいは地球を救う、といった映画を含めるとかなりの数になると思う。

 こうした映画を見るたびに、「アメリカ人は馬鹿が好きだね。なんでだろうね」と私は思う。だが「チャンス」のラストに、なぜ馬鹿が好きなのか、に対してヒントがあった。
「チャンス」のラストで、主人公は池の上を歩く。これはもちろん、イエス・キリストの奇跡を意味している。それなら、チャンスはキリストなのか。それにしてはチャンスはキリストとイメージが違いすぎる。むしろ、チャンスは神の祝福を受けた人、という解釈のほうが良いだろう。
 それならなぜチャンスは神の祝福を受けているのか。

 恐らく彼は「無原罪の人」なのだ。創世記、イブは蛇の誘惑を受ける。知恵の実であるリンゴを食べれば神様のように賢くなれますよと。そしてイブはアダムと共に知恵の実を食べて、まず羞恥心を覚えるようになり局部を隠す。羞恥心を覚えたのは性欲を得たからである。そして、知恵の実を食べた罪から、人はエデンの園を追われることになる。
 無原罪の人、とは知恵の実を食べる前の人間を指す。知恵の実を食べていないから、知的な障害がある。それだけではなく、リンゴを食べる前の人間は性的欲求を持たない。

 アメリカはキリスト教国である。アメリカ映画を観ているとそこに思い至ることがしばしばある。
 チャンスという人物の造形は無原罪の人そのものである。原罪が無いのだから神の祝福を受けるのは当たり前なのだろう。

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